特殊清掃「戦う男たち」さみしがりを更新いたしました。
さみしがり
まだ五月だというのに、ここ数日、夏のような日が続いている。
ただ、その五月も明日で終わり、もうじき梅雨の時季。
しばらく、ムシムシ・ジメジメと過ごしにくい日が続くことになるけど、例年、私のウォーキングコースの一角には紫陽花が咲く。
今年も、蕾が出ているので、じきに咲き始めることだろう。
そして、雨が降っているときや雨上がりには、その脇の歩道に、生まれたばかりの小さなカタツムリがたくさん這い出てくる。
その姿は、とても小さく、とても可愛らしい。
ただ、彼らは、まったくの無防備で、よくよく見て歩かないと踏みつぶしかねず、その際は、ゆっくり慎重に歩くことが必要。
しかし、道行く人が、皆、私と同じことを心配しているとは限らず、となると、当然、踏みつぶされる子もいるわけで・・・残念ながら、淋しい想いをすることも少なくない。
歳のせいか、メンタルが弱っているせいか、このところ、何もかもが淋しく想えて仕方がない。
人間関係もそうなのだが、特に淋しく思えるのは、過ぎ去りし日の想い出。
事ある毎に、「笑顔の想い出は人生の宝物」と言ってきた私。
今も、その考えに変わりはない。
しかし、今は、そこに、極端な淋しさが覆いかぶさってくる。
ネクラな私にも、過去には、楽しかった想い出がたくさんあるわけで、それを想い出すたびに、
「もう二度とないんだな・・・」
「もう、この先、あんな楽しいことはないんだろうな・・・」
と、やたらと悲観的に捉えてしまう。
そうすると、生き甲斐が見いだせなくなり、その結果、生きることの意義や、自分の存在価値も見失ってしまう。
人生のプロセスには、すべて“時”がある。
すべてにおいて、“始まり”があれば“終わり”もある。
その“時”が過ぎてしまえば、すべておしまい。
時の流れに抗う力がない以上、諦めるしかない、受け入れるしかない。
「元気を出そう!」と、藁をも掴む思いですがりつく“笑顔の想い出”が、更に、淋しさを増長させているような始末。
戻れない時を想うと、戻せない時を想うと、私は、ヒドく淋しい気持ちになってしまうのである。
出向いた現場は、住宅地に建つ一軒家。
建てられてからそれなりの年数が経っており、そこそこ古びて傷んではいたものの、大きな家屋で、ちょっとした豪邸。
新築当初は、きっと、人も羨むような家だったに違いない。
また、下世話な話だけど、当時、結構な建築費がかかったはずだった。
そこでは、高齢の女性が一人で生活。
しかし、その昔は、一家五人で生活。
子供達はこの家で大きくなり、夫は会社勤めを続けた。
ただ、時の流れには逆らえず、子供達は成長、独立し、老齢になった夫も死去。
女性も齢を重ね、不自由の多い身となった。
私が訪問したとき、女性は、体調を崩して入院中。
で、現場で私に応対してくれたのは、女性の長男(以後「男性」)。
男性にとって、ここは実家で、依頼の内容は、家財生活用品の処分についての相談。
それは、単なる「不用品処分」というより、「生前整理」「終活」に近いニュアンスのもの。
なかなかデリケートな仕事になることが予感される相談内容だった。
促されるまま、家の中に入ってみると、広いはずの屋内は手狭な雰囲気。
大型の家具が数多く置かれ、その他の家財もかなりの量。
「ゴミ屋敷」と言うほど、ヒドく散らかっていたり、不衛生な状態になったりはしていないながらも、まるで家全体が、倉庫・物置になってしまったような状態。
あまりの窮屈さに、感嘆の溜め息を漏らしてしまうくらいだった。
この家は、男性が幼い頃、まだ若かった男性の両親が建てたもの。
築年数は、約五十年。
長年に渡って買い増されたのだろう、タンスには衣類等がギュウギュウ。
子供のモノから亡き夫のモノまで。
親戚が集まって寝泊りするときに使っていたのだろう、押入には、「旅館か?」と思う程の布団や座布団。
誰かの結婚式などの贈答品だろう、ギフト箱に入ったままの毛布やタオル、鍋やフライパン、コップや皿。
時の移り変わりと共に増えていったのだろう、食器棚には食堂を思わせる程の大量の食器。
その他、大量の割り箸やレジ袋、たたまれた包装紙や紙袋。
居間の物入れの引き出しには、昔出掛けた旅行のパンフレットや泊まった旅館の手ぬぐい、
果ては、ご当地弁当の容器や割り箸の袋まで。
どれもこれも、かなりの年代物。
ただ、これらは、ほんの一例。
一つ一つ説明しているとキリがないくらい。
家中に、五十年の生活の中で手に入れた、ありとあらゆるモノが保管されていた。
私にとって、特に圧巻だったのは、二階の子供部屋。
つまり、男性をはじめとする女性の子供達が使っていた部屋。
もちろん、「模様は当時のまま」という訳ではなかったが、部屋に置いてあるモノや しまってあるモノは、ほとんど当時からのモノ。
子供用の勉強机はもちろん、二段ベッドも当時のまま。
押入には、当時の布団をはじめ、箱に入れられた教科書やノート、漫画や玩具も。
ランドセルや学生カバンも。
タンスには、学生服や子供服までも保管。
それ以外にも、とにかく、想い出の残るモノは、徹底的に取り置いてあり、この家に何の想い出もないアカの他人の私でも「懐かしい!」と思ってしまうようなモノがたくさんあった。
モノであふれる家を見るにつけ、男性は、それまでも、幾度となく片づけを思案。
しかし、女性が、それをスンナリ認めないことも容易に想像がついたし、また、それは、母親をはじめ、家族の人生を否定するようにも思えて、結局、具体的な行動にまではつながらず。
ただ、そうは言っても、人は、時間には逆らえない。
誰もが皆、過ぎた時間の分だけ歳をとり、老い衰え、やがて死んでいく。
だから、どんなに大切にしているモノでも、どこかのタイミングで始末しなければならない。
どんなに執着しているモノでも、いずれは手放さなくてはならない。
自身もいい年齢になり、更に、女性が病院の世話になるようになって、そのことを悟った男性は、少しずつでも片付けることを決意。
女性に、そのことを相談する意思を固めていた。
家は、「異常」と言っても過言ではない状態だったが、女性の心情を察すると、理解できるところもあった。
戦中戦後の、貧しくてモノのない時代を経験した人にとって「使えるものを捨てる」というのは、我々が想像する以上に抵抗があるのかもしれない。
また、“想い出”というものは、心に残るものだけど、忘れ去られやすいものでもある。
しかし、それに関係するモノが物理的に残っている場合は、それに接する度に、当時の温かさを蘇らせることができる。
そうすることによって、知らず知らずのうちに、無機質のモノが擬人化され、“家族同然”みたいな感覚を抱くこともあると思う。
女性にとっては、それらを捨ててしまうことが、まるで、大切な想い出と家族を捨ててしまうような感覚で、大きな淋しさを覚えることだったのかも。
また、自分でも気づかないところで、どことなく、満たされない淋しさを抱えていたのかも。
それで、自分でも気づかないところで、心の隙間を物理的に埋めようとしていたのかもしれなかった。
モノに対する想いの込め方は、人それぞれ。
モノに想い出を重ねる人もいれば、ドライな人もいる。
私のように、極端に、過去の想い出に縛られる人は、実は、未来志向で生きることが苦手な、さみしがりなのかもしれない。
しかし、生き方としては、モノに執着しない方が楽なような気がする。
その人の性格や、その時の精神状態によるのだけど、想い出というものは、心を軽くする浮きになることもあるけど、逆に、心を重くする錘になってしまうこともあるから。
ただ、人によっては、それが簡単でないこともある。
“想い出の品”って、そう簡単に割り切ることも、冷淡に処分することもできるものではない。
「心がときめかないモノは捨てた方がいいモノ」「一年使わなかったモノは一生使わないモノだから不要なモノ」と、他人は勝手なことを言う。
そう言われても、当人には「使わないから不要」「使うから必要」といった概念はなく、“使うor使わない”は、問題ではない。
想い出の品が手放せないのは、ただの所有欲とは違う。
何に使うわけでもなく、金銭的な価値がなくても、持っているだけで心が満たされ、心が癒されるのだから。
私は、これまで、「あれが欲しい!これが欲しい!」と欲張った生き方をしてきた。
余計なモノを手に入れるために、どれだけの時間と労力を費やしてきたことか。
無用なモノを手に入れるために、どれだけの金と気を使ってきたことか。
それだけの、時間・労力・金・気をもっと有用なことへ投じれば、人生はもっと豊かになったかもしれない・・・
しかし、結局のところ、最期は、全部ゴミ。
どんな物持ちも人も、何も持っては逝けない・・・
まま、一生かけて、必死で手に入れた数々のモノは置き去りにするしかない・・・
自分のこの身体だって、ゴミと同じように燃やされてしまうだけ・・・
「この身体も、最期は骨クズと灰クズ」「ゴミ屑も同然」
それを悟ると、モノに対する考え方と自分が出す答が変わってくる。
この鬱々とした気分が少しでも変わることを期待して、私は、この春、断捨離することを思い立った。
「死ぬ準備をしておけば、少しは気が楽になるかな・・・」と、ただの“断捨離”というだけではなく“終活”するような気持ちもあった。
というわけで、「想い出は心の中にある」と、今まで捨てられなかったモノも思い切って処分することに。
そして、「こういうことは一気にやった方がいい!」と、先日、そのためだけに休暇をとって一人で作業した。
すると、あるわ あるわ、出るわ 出るわ、つまらないモノが、わんさか。
無趣味につき、何かを集めるような収集癖はないのだが、ケチな性分も手伝って、使っていないモノはもちろん、棚・引き出し・押入・クローゼット・収納ケース等には、存在自体を忘れていたり、一体、何のために取って置いたのか、自分でもわからないようなモノまでたくさん。
中には、ホコリにまみれたモノや、カビが出たモノもあり、取って置いた自分をバカにしたくなるようなモノも。
昔の日記や写真、プレゼント、手紙etc、想い出深いモノが現れたときは、思わず声を上げたり、つい手が止まったり、涙が出そうになったりもした。
もちろん、「淋しいなぁ・・・」「もったいないなぁ・・・」といった未練はあった。
それでも、当初の決意を思い出し、思い切ってゴミ袋に放り込んだ。
昼休憩はとったけど、朝からやって夕方前には終了。
それで、「処分する!」と決めていたモノの九割くらいは片付けることができた。
残ったモノは、一部の書類と衣類、それから、手紙・写真・日記の類、つまり、想い出深~いモノ。
これらのモノは、最初から「捨てる」と決意していたものではないのだが、それでも「日記くらいは捨てよう」と考えていた。
が、結局、手をつけることができず、「次回にしよう・・・」ということに。
ただ、“次回”も、そんなに先にするつもりはない。
気が変わらないうちに、心が折れないうちに、面倒臭くなる前に、少しずつでも進めたいと思う。
今回の“自分始末”は、自分としては思い切ったアクションだったのだが、結果として、メンタルに期待していたほどの変化はなし。
「俺は、この世に不必要な人間なんじゃないか・・・」
「俺の代わりになる人間なんて、いくらでもいる・・・」
そういった淋しさは、ほとんど変わっていない。
まぁ、それでも、「余計なことしたかな?」といった後悔はなく、「片付けてよかった」という気持ちにはなっている。
鬱っぽさは変わらないけど、スッキリした感覚はある。
気持ちに変化がないのは、“心の断捨離”できていないから。
気持ちを変化させるには、“心の断捨離”をするしかない。
何の気配もない心配事、自分を陰鬱する勝手な想像、根も葉もない劣等感、勝者のいない敗北感・・・そして、気分を沈ませる過去の記憶・・・
探してみると、心の中には、捨てた方がいいモノがたくさんある。
手放すべきものは手放し、捨てるべきものは捨て、身も心も軽くなれば、この淋しさも、いくらか癒えるかも。
必要なのは、「勇気」と「決意」と「覚悟」。
勇気を出さず、固い決意も、強い覚悟もないままで、変化だけを求めるなんて、人生にも世の中にも、そんな虫のいい話はない。
しかし、いつになったら、それらを持てるのか自分でもわからない。
どちらにしろ、こんなに弱っているうちは無理そうだから、もうしばらくは、淋しい人生をしのいでいくしかなさそう。
「今の苦しみは、明るい未来に向かうための“鍛錬”“荒療治”、そして、“吉兆”」と、無理矢理にでも自分に信じ込ませて。